幕末秋田藩のスパイ日誌、その名も「風雲秘密探偵録」

先般、江戸時代後期に秋田出身の高名な国学者で新しい神道を提唱した「平田篤胤(ひらたあつたね)」について調べていたら、4代目にあたる平田盛胤(もりたね)が神田明神の宮司だったことが分かったというお話を書きました(→こちら)。徳川慶喜の葬儀の斎主を務めるなど、神道の世界ではかなり有名な方だったようです。
ということで平田家の系図を調べてみると、(便宜上篤胤を初代とします)
初代 平田篤胤(あつたね)
↓養子(篤胤の娘婿)
2代 平田銕胤(かねたね)
↓実子(篤胤の嫡孫)
3代 平田延胤(のぶたね)
↓養子
4代 平田盛胤(もりたね)
となります。
初代篤胤は若い頃秋田を飛び出し、江戸で国学(日本古来のものを大事にしようという学問)に出会い、国学者として活躍するなか、「気吹舎(いぶきのや、と読みます)」という塾をはじめます。当初は神田明神のお隣、湯島天神の男坂下にあったそうです。ちょうど、先日ご紹介した「シンスケ」さんのあるあたりですね。
篤胤はその後激しい尊王主義など過激な出版活動で幕府により江戸追放となって、秋田でそのまま没します。その後この塾を支えたのが娘婿の2代銕胤(かねたね)です。非常に筆まめで気遣いにも優れた人物で、塾生の数は篤胤のときより大きくなりますが(約550人→約1300人)、あくまで初代篤胤の教えを広めることに徹し、自分が前に出るようなことはしないような方だったそうです。
なお、このころには気吹舎は佐竹家の屋敷に移ります(佐竹商店街のあるところです)。つまり、秋田藩に正式に認められる機関になったということです。それはなぜか。
先日NHK番組「英雄たちの選択」で大塩平八郎が取り上げられていたのですが、その時司会の磯田道史先生がおっしゃっていたのが、江戸時代、厳しい身分制が敷かれていたが、抜け道(身分差がなくなる場所)が2つあって、一つは茶会、もう一つが学問の集まりだったそうです。で、大塩は(儒学の中で)御用学問の朱子学でなく陽明学を教えており、その塾にもたくさんの人が集まって、情報ネットワークが形成されていきます。陽明学の行動を重視する姿勢を貫き反乱を起こすわけですが、それを可能にしたのはこのネットワークだったわけです。
秋田藩として、この気吹舎の国学塾情報ネットワークを使わない手はありません。初代篤胤と違い慎重に行動する2代銕胤であれば暴走して幕府と揉めるようなことにならないだろうという目論見もあったでしょう。そして、この全国に広がった気吹舎の弟子たちのネットワークを使って情報収集をさせ、筆まめの銕胤に藩へ報告させていたそうです。
この藩への報告をまとめたものこそ、その名も「風雲秘密探偵録」です。黒船来航以降の幕末の様子がつぶさに書かれている、今日でも第一級の資料です。とはいえ、ずっと活動できていたわけではありません。銕胤の子で篤胤の孫でもある、3代目延胤(のぶたね)が、気吹舎で「若先生」とよばれていたそうですが、バランスタイプの父と違い初代篤胤のような情熱的活動家で、尊王攘夷運動に自ら邁進していきます。
というわけで、其の時々の情勢によって気吹舎の活動は幕府との関係を気にかける藩から制限されたりしていたようです。黒船来航後に探偵録が始まりましたが、大老井伊直弼による尊王攘夷派への弾圧「安政の大獄」で弾圧があると一時中断します。しかし、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」後に復活。その後、尊王攘夷派の中心、長州藩が追い落とされる「禁門の変」がおこると、再び幕府側が巻き返してやはり中断します。長州との密接な接触を図るなど、苛烈な活動をしていた3代目延胤は秋田藩から罷免されてしまいます。
しかし、大政奉還の後、王政復古の大号令(薩摩と長州によるクーデター)で官軍側有利となると、探偵録も復活。銕胤は京都に派遣され鳥羽伏見の戦いを報告しています。延胤も復帰して藩主とともに秋田に戻ります。探偵録はここまでですが、その後戊辰戦争において秋田藩が東北で唯一官軍側についた経緯は先日書いたとおりです。
秋田藩が、江戸や京都の情勢を深く気にしていたこと(そして情勢が目まぐるしく変わっていたこと)、そこで気吹舎のネットワークが強い力を発揮し、時代の波に翻弄されつつ、時代を変える一つの要因になったことが非常によく見て取れます。
我々の業界のネットワークも、風雲急を告げる今の日本で、社会やビジネスを変えるために学ぶ集まりです。いろいろと勉強になりますね。
なお、初代平田篤胤はその後、明治天皇に認められて平田神社という神社が作られ、神様として祀られることになりました。東京では小田急線南新宿駅から歩いて10分ほどのところにあります。見に行きましたが、住宅街の中にひっそりとではありますが、立派なお社(やしろ)がありました。
秋田では久保田城址(千秋公園)内にある彌高(いやたか)神社にて祀られているそうです。平田篤胤が秋田にとっていかに重要人物だったかが分かりますね。
平田家四代と秋田藩を通じて見直した幕末から明治の日本の歴史。秋田を知るとより深く日本のことが分かる、のかも知れません。
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